最近は代表関連の試合が目白押しだ。A代表はオーストリア遠征、五輪代表はアジア地区最終予選、なでしこジャパンは女子W杯に臨んでいる。それぞれ見所はあるが、9月11日、12日の2日間で前出の3代表がともに見事な戦いを見せた。A代表はスイスに後半ロスタイムのラストプレーで逆転勝利。五輪代表は勝ち点で並ぶカタールをホームで下し、なでしこジャパンは初戦イングランド戦をこちらも後半ロスタイム、ラストプレーの劇的なFKで、値千金の勝ち点1を手にした。
興奮の展開と及第点の結果で、つい安堵感を抱いてしまうが、問題点がなかったわけではない。特に男子に物足りない点が目立った。それはともに前半の戦い方に現れていた。それは「責任」の所在がはっきりしないサッカーを展開してしまっていること。ここで言う「責任」とは、オシム監督が口を酸っぱく言っている、「日本人に足りない点」である。
A代表vsスイス戦、五輪代表vsカタール戦とも前半は「責任」逃れのようなパスばかりが目立った。サッカーにおいて「責任」の所在が最も簡単に判別できるのが、シュートが外れた時、ドリブルをとられた時、パスをカットされた時だ。誰がミスしたか一目瞭然。チームメイトにはもちろん、サポーターからもブーイングを浴びる。でもそんな屈辱を味合わない方法がある。それは安全に味方にパスを通すこと、詰まって取られそうになったら逃げるドリブルをすること、大きく蹴り出すことだ。そうすることで、ボールをキープできる。それはあたかもゲームを支配しているようにさえ見える。しかしこれはパス達者の日本が陥りやすいアリバイ作りのためのサッカーだ。つまり、「負けたけどキープできたでしょ」、「課題はフィニッシュの精度かな」などの前向きなコメントを試合後の感想に持たせるためのサッカーということだ。
だが、そこに感動は生まれるだろうか。一つひとつのプレーに「責任」をとらない限り感動を与えることはできないだろう。最も批難されるべきは、パスをカットされることでも、ドリブル勝負に敗れることでもない。それは勝負をしないことだ。シュートが入る可能性が30%ある、クロスを上げる隙間がボール1個分ある、体勢が悪くても決定的なスペースが一瞬見えた。そんな時に勝負を仕掛けてほしい。その姿勢、そのチャレンジ精神こそ、最も評価される風潮をチーム内で作り出してほしい。ブーイングの対象になったとしても、その重圧を背負い込んで再びチャレンジすることこそ、もっとも価値あることであり、最も崇高な「責任」の取り方なのだと思う。
後半A代表はオシムに発破を掛けられ次々チャレンジ&エラーを繰り返し逆転勝利に結びつけた。五輪代表は1人退場し10人になったことで「ミスできない」という背水の状態から緊迫度が増し、「責任」あるプレーが随所に見えた。結果的に素晴らしい試合になった。
翻ってなでしこジャパンだが、以上に挙げた「責任」については何も言うことはない。誰一人さぼることなく、愚直なまでに前を向き、体格で一回り大きいイングランドに全く臆することなく立ち向かっていった。責任ある行動は人々の感動を呼ぶ。責任を背負ったなでしこ達に女神はちゃんと微笑んでくれた。
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